月に浮かぶ小舟

 1

 喫茶店の中で彼女の話を聞いている。
 悪意がないどころか「邪気」がほとんど感じられない。それは営業用のスマイルなのか、それにしては無防備で外連味がない。ここまでを演技で出来るものなのだろうか、だとすると信仰心の為せる心境か。
 視線をそらすこともなく。
 かと言ってそこに何かを籠めることもなく。
 宗教の勧誘と言っても押し付けがましさも商売主義でもなく「親しみのある世間話」程度だった。そのままで、純粋に宗教が世界にどのように役に立つかを解く。
「そこに愛を感じられたら、信じられたら素敵だと思います」
 そしてその言葉には嘘はなく、控えめで。
 思わず「そうですね」と言う自分が居た。
 確かに愛は日常に足りていないと思うからだ。

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 つい30分前に再開したばかりだった。
「――あなたは愛を信じますか?」
 それはどこか微睡みのある視線だった。
 25才くらいだろうか、黒と白の私立の制服のような上品な服装。
 ただ彼女が「何かの宗教の関係者」であることは分かった。それとなく遠目で見ていた理由は彼女が美しかったからで「美人で若いのにこんな仕事は大変だろうな」そう思っていた。不意に目が合うと私に微笑みかけてくれた。
「――あなたは愛を信じますか?」

 無数に立つビルの中に存在するその疲れたその眼差し。
 私はその瞳を前に見たような気がした。
 詳細までは思い出せないけれど、確かにどこかで会っている。
「おそらくどこかで会ったことがあるのですが……」
 それが何処か思い出せずにいた。
 それと同時に「下手なことを言ってしまったか?」と焦った。
 何処かで会ったことがあるか、なんてこれほどまでに「宗教勧誘側に有利な言葉」もそんなにないな、そう感じて「失敗した」と思った。これで付きまとわれたとしたら、どうやって逃げよう、そんなことを考えたけれど。
 その言葉に彼女は一般的な反応してくれた。
「そうですね、以前、当時の友人に誘われた合コンで、大学生の時ですから4年前。見た時に思い出したのですがあなたも覚えていてくれていたのですね」
「……そうでしたか?」
「覚えていませんか?」
 自分の記憶を思い出してみることにした。
「4年前……言われてみるとその頃は友人に誘われて」
 4年前の当時の私は26才になる。
 確かにその頃は人付き合いなどで年に数回合コンに行ったような記憶があった。年齢的にも彼女が欲しくて、色々な場に出会いを求めていたような時期だ。そのあたりのことは私より彼女の方が覚えているようだ。
「話を聞いてくれる、素敵な人だと」
「あ、ああ。ありがとう」
「――私の話を聞いてくれますか?」
 ここまで展開してしまったからには断れなくなった。
「……時間的な余裕がないけど、少しなら」
「それでは少し雑音のない場所へ行きましょうか」
 そう言うと彼女は聖書を英国風のキャリーケースに仕舞った。それで「行きましょう」と私たちはこの場を離れることになった。路地裏にある小さな個人経営の喫茶店。中に入るとガランとした鈍い扉のベルの音。
 鈍い光とダークトーンの店内。マスターは無口な老人だった。
 テーブル席に二人は座る、古いものの埃はなく清潔だ。
「ここのお店、私は好きなんです」
 静かな店の中で響きをよく聞くと、それがどこかマゾスティックな声色だ。マスターが水を運んだ時に何を注文しようか考えるまでもなく彼女が注文してしまう。
「マスター、ブレンドを二つお願いします」

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「改めて自己紹介します、私は「白鳩 みず」と言います」
 それが本名なのか私には判断付かないけれど。
「みずさんは、お嬢様っぽいですね」
「ありがとうございます、一応私立大学卒です。お嬢様なのか分からないですが」
 仕草で育ちは良いと分かるもので。ただ話してみるといわゆる「上流階級」とは違うような気がする、特殊な印象だった。どこか他人とは雰囲気が違う。
 彼女は静かに口を付けた、口紅などは塗っていない。
 飾り気がないことは人によって好みが分かれるけれど、私は別に嫌ではない。彼女に関して言うなら「素材がいい」から、飾り付けなくても十分に魅力的で邪気がない。むしろ清潔さが勧誘に必要なのかもしれないと思った。
「私は「二神 鴨」と言います」
「そうですか、二神は珍しい名字ですね」
 偽ることない本名を言ってしまったが不用意だったかもしれない。
「さきほどのの街頭での活動は、宗教の勧誘でしょうか?」
「はい、私は勧誘です」
 彼女はさっと聖書を一冊取り出して。
「ぜひ、この本を読んでみてください」
 そう言って駅前で配っていた「聖書」を一冊手渡されるのだった。

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