月と猫又 前編

 1

 月明かりの下の此処は夜の賭場でした。今宵は六月の終わり。
 紫陽花の花には夜霧の水滴、それを飲むはにわかに姿を現した蛍たち。
 崩れかけた民家の中の燭台の上には、菜種油に灯した火がゆらゆらと波のように静かに揺れるのは、同じように波のさざめきのような声のせいでしょう。押し殺したような声が場を支配して。ざわつく空気を肌で感じて。
 あまり大きな声を出せないのは何処の賭場でも同じだと聞きます。
 ですが此処はまだ気楽なものです。何せ周りを見渡しても見慣れた妖ししか居ないのですから。馴れ合った者ばかりであまり緊張はないのです。

『ツボを被ります』
 この賭場を仕切るのはツボを振る女でした。
 胴元を兼ねて一人で進めています。胸の白い晒しが見えて。
 威勢の良い言葉で賭け事に対しての「酔い」を回らす声が。
『さあさあ張った張った。当たるも外れるも粋なもの、張らないのは意気地なしだ』
 その言葉で私は僅かな種銭を握り締め直す。
「この場で少しでもお金を増やして上等なお酒を買うのですよ」
 米から作られる清酒が飲みたいのです。他の妖したちも同じようにあれが欲しい、これが欲しいと言う欲を持っています。そして週に一度開かれる、この賭け事に興じるのでした。今宵には三日月の夜。夜空は透き通っていました。

 ――此処は遊び場みたいなものですが、まあ、小銭を稼ぐ分には丁度良いのです。
 私みたいな妖しがお金を増やすのにはこのような怪しい方法が一番で。
 人の世で働くことも出来ずに、それでも人の世の物を得たいと言うならば怪しい勝負事をするしかないのが何時の時代も変わらない理りでしょう。世界の除け者たちは同じ穴の狢なのです、何処でも何時でも。
 勢い任せに賭けていく他の妖したち、私は場を眺めていました。
 隣に居た「むじな」が私に話しかける。負けが込んだせいで少し苛立った声です。
『猫又さんよ、張らないのなら邪魔だから何処か行きな』
 私はその言葉に答えました、目は動かさずに。
「少し黙ってもらえますかね? 私は私で真剣なものなのですよ、これでも」

 二つの賽子を使った簡単な博打「丁半」
 花札も良いですが丁半も良いものです。
 複雑で無いゆえに妖したちも理解出来ているのでした。
 偶数ならば丁、奇数ならば半。賭け金を増やすか減らすかは勝負勘と幾つばかりかの時の運です。もっともイカサマが無ければの話ですが。小銭を手のひらのうちで回しながら勝負に出れる時が来るのを待っていたのです。
 出目を見ながら今宵の傾向を探っていたのです。

 丁丁半丁半丁半半丁
 半半丁半半半丁半半
「丁を抜かせば今宵の半は一つが二回、二回連続が二回、とすれば次は三回連続が……」
『何をぶつぶつ言っている、珠希。今宵は逃げ腰か? 猫又は弱気だな』
 失う物は僅かで、賭けなければ何も得ない。私は勝負することに。
「今宵もいよいよ終盤ですね、賭けましょう。半へ全て――」

『では、これで今日は仕舞いにしよう。今宵の最後の勝負だ」
 全員出揃ったところで息を飲んだ妖したち。
 そして女の「勝負」の合図で賽子が顔を出しました。

 ・・・・・・・・・・

 事の始まりはここ葉の山の中の、小さな賭場でした。
 古都「鎌倉」から近い場所でして。まあ近いと言ってもそれなりに歩くのですが。
 何も無い場所ですが妖しには居心地が良い場所でした。
 小さな山々が連なり道幅は狭い。南には海岸があり天気が良い日には富士の山が遠くに見えるのでした。西へ行くと古都「鎌倉」の賑わい「葉山」はそんな土地で。そして此処には大勢の妖したちが集まるのでした。
 私を含めて誰もが生活基盤のないふらふらした連中ばかりです。
 風が謳う夜の歌が聞こえる頃、人の子が眠る頃に「妖し」は活動を始めるのでした。

 私「猫又」もそんな妖しの一部分でした。
 大正の夜はそのような存在で少し賑やかなものでした。栄えた街から少し離れたこの土地にはまだ山と森が。妖しの多くはここでの生活に満足していました。
 自然の中に潜み、心の内で人の世も近いこの場所を愛していまして。
 ――我々には人が居ないことには何も始まらないのです。
 妖しは人を化かすのが生業ですから。
 ですからこれは物語の序章とでも言っておきましょうか。
 何せまだ人が一人も出てきていないのでして、妖しのみでは中身が無いのです。

 ・・・・・・・・・・

「私も大分、勝負勘と言うものが備わってきたようですね」
 手のひらでちゃらちゃらと鳴らした銅貨、気分良さげに歩くは猫又で。
 来るときは僅かだった小銭は、手のひらに収まらなくなって大半は懐へ仕舞う。
「今宵は私にひと握りのツキがあったようですね。これだけの額ならば藤原商店で上等のお酒が買えるはずですにゃん。何と素晴らしいことです」
 そう一人言を言いながら口笛吹いて歩く帰り道。
 半分ほどの酒が入った小さな酒瓶を片手に、景色の良い場所を目指して歩くのでした。
「新しいお酒が手に入るのならば、この古いお酒は今日のうちに飲んでしまいましょう」
 この先には川の流れが止まる場所があって、夏の夜には涼しい場所でしょう。

 この山の水の流れには少し早い夏の知らせ、蛍火。朧ろで頼りない光でした。
「今年は随分と蛍が出てくるのが早かったですね。まだ六月だと言うのに。まあ明日には七月なのですが……どうにも時間感覚が年々おかしくなりますよ」
 年を重ねるたびに俗世に、人の世に染まり過ぎたせいでしょう。
 季節の変化を見落としがちになっているのでした。

 道の途中で耐え切れずに飲みだしたお酒。酔いどれの足並みは揃わず、千鳥足で。今日の小さな賭けに勝っただけでこの世を手に入れたような高揚感を。瓶に入ったお酒を飲みながら歩き、先日見つけたその場所にたどり着くも。
「どうもいまいち……ですね。もっと森の奥の方へ行ってみましょうか」

 この山に拠点を置く妖しと言えど、普段の行動範囲には限りがあって。この山々の全てを知り尽くしているわけではないのです。まあ人の子よりは知っているのには変わりないのですが。私はまだ見ぬ場所へと向かっています。
 着物の袖から見えるのは自分の肌の色。
 ふらふらと流れ流れ歩く。まだ知らない方向へと向かい。

 水の音が聞こえていました。その方向へと足は流れ。
 少し綺麗な場所に出ました。と言っても変わらずの緑の中。何が此処を綺麗と思わすのかよく分からないのですが何かが違うような気がしていたのです。
「此処は良い感じですね。どれ、酒を飲ませてもらいましょうか」

 腰を降ろそうとしたところでこの場所に私一人ではないことに気づきまして。
「おっと……先客が居たのですね。これは失礼」
 この山には縄張り意識の強い田舎者も大分居るもので、迂闊に馴れ合うことも危険なのです。なので妖しと言えど初めて会う存在には気を遣うものなのです。下手に相手の機嫌を損なって敵を作るのも考えものでして。

 ですが見る限りではそれほど危険そうには見えませんでした。
 そこに夜の服をまとった彼女が立っていたのです。波の一切無い水面に映る三日月の上に彼女は存在していたのでした。金色の髪は今宵の月のように美しく、透き通った手足は人のそれではないのです。それらは夜の住人のものでした。
 草陰から虫の謳う歌がこの耳に聞こえていました。
「初めて見る顔ですね、私はこの辺りの妖しはほとんど知っていた気でしたが」
 彼女は少し戸惑いながら私に聞きました。
「初めまして。と言うべきなのでしょうか? 何故か記憶が曖昧で」
「そうですね。初めてお会いするのでそれで合っていると思います」
 彼女は頭を抱えて不思議そうに。
「どうして記憶が無いのでしょう」
「私もお酒を飲んだ次の日は記憶が曖昧ですよ。特別なことじゃないですよ」

「髪先が揺れるのを見ると、そちらでは随分と涼しい風が流れているようですね」
 酔ったまま歩いて彼女の方向へ。水辺に足を踏み入れた瞬間に、乱れた水面の月のように彼女の姿も消えるのでした。それでようやく彼女の正体が「水に映った月の精」だと気付いたのです。水の精であり月の複製でした。
「珍しい存在です。綺麗なものですよ」
 腰を降ろしこの綺麗な場所で酒を煽っていたのでした。

 何時の間にか眠ってしまったようで起きると朝でした。
 二日酔いの朝。迎え酒とばかりに酒瓶を逆さにしても一滴もお酒は溢れず。
「もう空っぽですね。さて鎌倉の街まで出て行って、新しいお酒を買うとしますか」




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