人外のはなし

 1



『ある秋の記憶』

 りんと鈴が鳴った。彼が歩くと、決まって鈴の音がする。
 十一月のうららかな午後、鮮やかな花柄の着物を着た少女は、何本も連なる鳥居の下を駆け抜けて行った。鳥居の隙間から、秋の陽光が彼女を射す。
「桜、転ぶよ。待ちなさい」
 桜と呼ばれた幼い少女は、自分を呼ぶ男性の声に振り返った。小さな手には、半分ほど溶けた千歳飴が握られている。
「おとうさん、はやく!」
 少女の父は、口元に微笑みを浮かべて彼女を追いかけた。彼の鼻から上は、狐面で隠れて表情が見えない。頭には、黄金の体毛を生やした立派な狐の耳が生えていた。

 ガタンと大きく車体が揺れる。その振動で桜は目を覚ました。
「夢……」
 七五三の日の夢を見ていたらしい。もう十年以上も前のことを夢に見たのかと、彼女は感慨深げに息を吐いた。
 つい先ほど東京を出発した汽車は、いつの間にかのどかな緑の中を走っていた。秋の空は広い。窓から蒼天を見上げると、ひつじ雲が浮かんでいる。
 これまでも実家を離れて東京に来たことは何度かあったが、今回は一週間も滞在していた。実家では、父が一人で首を長くして自分の帰りを待っているだろう。しかし、今日こそは言わなくてはならない。東京で一緒に暮らしたい人がいると。
 彼女の父は寂しがり屋だが、この世の何よりも娘を愛していた。桜は静かに気持ちを固め、窓の外の田園風景を見つめた。到着まで、あと一時間。

 彼女が今の父親と親子になったのは、二十年前のことだった。
 とある町のはずれに、もう誰も参拝しないような寂れた神社がぽつんと建っていた。目の前の通りは、カーブになっていて見晴らしが悪い。
 ある日、事故は起きた。乗用車同士の正面衝突で、どちらの車も乗っていた全員が即死したが、ただ一人、片方の車に乗っていた赤ん坊だけが、奇跡的に無傷だった。
 動かない両親と潰れた車の下敷きになりかけて、赤ん坊は泣き続けた。その悲しい泣き声は、目の前の神社まで響いた。すると、誰もいないはずの本殿の戸が開き、中から狐面の男がぬっと姿を現した。艶やかな着物を身にまとい、歩くたびにりん、りん、と鈴の音がした。この地域の妖怪をまとめ、かつては神として祀られた、狐の大妖怪だった。
 彼は目の前の凄惨な有様を目にすると、迷うことなくそこに歩いて行った。大破した車の前で立ち止まると、神通力でそれをどかし、泣き叫ぶ赤ん坊をそっと抱いた。
「……かわいそうに。私の子に、なるがいい」
 沈香の香りが漂う腕に抱かれると、赤ん坊は泣くのをやめ、狐面をじっと見つめた。
 その赤ん坊が、桜だった。

 汽車は無事に到着した。実家までの閑静な道を歩いていく。桜が父親と住んでいるのは、あの事故があった神社だった。しかし、もう寂れてなどいない。桜を引き取ったあと、狐の妖怪がきれいに整え、かつて栄えていた頃のように神社を再建させたのだった。ただ、彼はそれと同時に千本鳥居まで作って本殿までの道を長くしたため、参拝者はほとんどいない。親子はこの小さな丹色の世界で、ささやかな二十年間を過ごしてきた。
「ただいま、お父さん」
 帰宅を告げてから、千本鳥居の中を歩いていく。どういうわけだか、この神社の敷地の中なら、どこにいても父の声が聞こえてくるのであった。そのため、桜は父の姿が見えなくとも、こうして父に話しかける。これも大妖怪の力なのだろうと彼女は納得していた。
「お帰り、桜。東京はどうだった」
 十歩と進まないうちに、上の方から父の声が降ってきた。楽しかったよ、と言おうとしたが、続けざまに彼の声が響く。
「どうした? 何か言いたそうな顔をしているが」
 この場にいないのに、こちらの表情までわかっている彼の神通力。改めてそれに驚きながらも、彼女は一息で宣言した。
「あのねお父さん、わたし、東京で暮らすことにした」
 りん、と鈴の音が鳴った。
「ずっと言おうと思っていたんだけど、一緒に暮らしたい人がいるの」
 りん、りん、りん、と鈴の音は次第に雨のような大合唱を奏でた。気がつくと、まだ昼なのに、鳥居の中は薄暗くなっている。早く父の元に行こうと桜は本殿を目指したが、普段は五分も歩けば鳥居を抜けるのに、歩いても歩いても辿り着かない。鳥居の出口が、見えなくなっている。薄暗さが増していく中で、静かにそびえ立つ鳥居は丹色の牢を作っていた。
「出ていくのか、ここを」
 父の声が降ってきた。怒っているような、悲しんでいるような、暗い声色だった。
「うん」
「この父の元では、不満かね?」
「そうじゃないの。でもわたし、もう大人よ。自分で、生きていきたい」
 りん、と悲しげに鈴の音が響いた。
「まだ……、まだ二十年しか共にいなかったではないか」
 りん、りん。鳥居の中はさらに闇を深くした。
「わたしだって寂しいよ、お父さん」
 ぴたりと、鈴の音が止んだ。
「寂しいから、ずっと言いだせなくて、……」
 寂しさと、父を置いていく申し訳なさと、それでも自分の望むところに行きたい静かな決意が、ないまぜになって言葉が詰まる。
「桜」
 いつもの優しい、父の声だった。
「こちらにおいで」
 気がつくと辺りは明るさを取り戻し、鳥居と鳥居の間から漏れる秋の陽光が幾筋も漏れていた。
 桜は走り出した。千本鳥居の中を本殿に向かって駆けて行った。何年も前、千歳飴を片手に、同じように駆け抜けたことが脳裏をよぎった。
 あの日も、父は寂しそうだった。

 走って鳥居を抜けた先に、父が待っていた。紺色の着物を身につけ、口元には寂しそうな笑みを浮かべている。鼻から上は、相変わらず狐面で表情が見えなかった。
「二十年」
 形の良い唇から、ぽつりと言葉が漏れてくる。
「千年以上生きている私には、ほんの一瞬のはずなのに、忘れられない二十年になってしまった」
 珍しく神妙になっている父に、桜はごめん、と静かに謝った。
「でもわたし、お父さんの娘で、よかった」
 彼はその言葉を聞くと、一瞬驚いたあと、頬を赤らめて幸せそうに笑った。
 すると、ざざ、と周りの紅葉が風もないのに鳴り出した。風の渦が二人を包む。
「桜」
 紅葉が擦れる無数の音に混じって、父の声が頭に響いた。
「この父はいつでも、お前をすぐそばで見守っているよ」
 狂うように舞う紅葉が邪魔をして、父の顔が見えない。
「お父……」
 桜はそのまま、意識を手放した。

 気がつくと、木にもたれかかって寝ていた。身を起こして辺りを見回す。きれいに整えられた神社も、千本鳥居もなくなっていた。目に映るのは、寂れた小さな神社と、一本の古ぼけた鳥居のみ。狐の妖怪も、もうどこにもいない。
 もう、ここには戻れない。
 桜はそばに落ちていた鞄を背負い、神社を背にして歩き出そうとした。すると、頬に一滴、水が落ちてきた。雨である。よく晴れて、太陽の光も届いているのに、雨が降っている。このような現象を何と呼ぶか、彼女はよく知っていた。
 雨に混じって、どこかでりんと鈴の音が鳴った。



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