愛のはなし

 1



『おやすみメモワール』

「夜更かしすると、夜の魔物が飛んでくるわよ」
 この街では有名な話を、母は今夜も娘に聞かせた。幼い少女はうんと頷き、素直にベッドに潜り込んだ。よく眠れるように、オルゴールをかけておくからね。そう言った母は部屋の戸を閉めた。少女だけが息をする部屋に、優しいメロディが流れる。父の形見のオルゴールだった。
 一時間経っても、少女は眠れなかった。目が冴えていた。オルゴールはとうに止まっている。ベッドの中でもぞもぞ動くのをやめた少女は、ぺたぺたと歩いて窓の前に立った。十一月の夜空には、三日月が凛と浮かんでいる。
「よふかしすると、よるのまものがとんでくる」
 舌足らずの口で、少女は母親から聞いた言葉を復唱した。そのまま夜空を見つめていると、一点がぽつりと黒くなった。その点はだんだん大きくなる。こちらに向かって飛んできているようだった。
 思わず窓を開けた少女は、夜風に髪を乱されて目を閉じた。ゆっくりと目を開けた彼女の前に、それは立っていた。
「私こそが夜の魔物。夜更かししているいけない子供は君かな?」
 その男は大きなつば広帽子をかぶり、顔を仮面で隠していた。二メートルはあろうかと思われる長身は、外套ですっぽり覆われている。頭の先から足元まで、真っ黒だった。
 少女は驚き、やがておとぎ話のような彼の出で立ちにはしゃいだ。よるのまものだ! すごい! と魔物の意味も知らず喜ぶ彼女に、夜の魔物は手を差し伸べた。
「君を夜の散歩にご招待しよう。ついておいで」
 彼がパチンと指を鳴らすと、薄紫色の柔らかそうな雲が飛んできた。

「わあ、すごーい!」
 少女を乗せた雲と夜の魔物は、秋の終わりの夜空をすいすい駆けた。二人の眼下には、巨大な夜の街が広がっている。たくさんの光が、大地の星のように瞬いた。少女の家は、もう見えない。
「わたしね、よるはこわかったの。でももうこわくない」
 興奮した様子で夜景を眺める少女に、夜の魔物はそうかと笑った。幼い少女が夜の冷たさを忘れてしまうほど、その夜は優しかった。
「夜はすべてを隠してくれる。悲しみも、寂しさも」
 彼は少女に言い聞かせるように、低い声でそう言った。
 天を見上げれば、白く輝く三日月が迫るようだった。夜の吐息が、二人を包み込む。

「さあ、夜の散歩はもう終わりだ。家まで送って行こう」
 小一時間ほど夜の散歩を楽しんだあと、魔物は少女に告げた。促すように、少女の乗る雲に近寄る。仮面の下で二人の目と目が合ったとき、少女は口を開いた。

「もういっちゃうの? パパ」

 夜風が止まった。流星が落ちた。夜の魔物は、暫し固まったあと、ゆっくり呟いた。
「……わかっていたのかね」
 うんと頷く少女の瞳には、つば広帽子が揺れていた。新月の夜のようなその帽子は、白い三日月によく映えた。
 魔物は細長い腕を折り曲げ、白い手袋で少女の前髪をかきあげた。そうして仮面を外し、そのまま、額にゆっくり口付けた。
「……ごめんな」
 少女の乗った雲が、ゆっくり高度を落とし始めた。空に浮かぶ夜の魔物と、距離がだんだん広がっていく。再び仮面を着けた彼は、地上に連れ帰られる娘を愛おしそうに見つめた。
 三日月が夜空に溶けている。光のかけらがふんわりと降った。遠くで、オルゴールの音が聞こえる。
「パパ、ここにいて……」
 少女のか細い声は、夜空に消えていった。

 額に残された口付けの跡が、少女を温める。夜は黒く、優しく、少女と街を包み込んだ。
 寂しさが誰にも見つからないように。



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