付夜紅葉雑貨店 弐

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 俺はまたあの『時町駅』のホームにいた。
 鞄の中には煙草が何箱も入っている。灰皿の隣に立って静かに煙草を吸いながらあの本のページを繰る。数字の羅列を目で追いながら意味を探す。俺の体の中を探るように。そこへ音も無く駅員がやってくる。
「最近はお客様がここにいらっしゃることが日常化してきましたね」
 俺は静かに煙草の煙を吐き出し、返事をした。
「ああ、ここは気持ちが安らぐよ。静かでいい」
「一般人は立ち入り禁止ですからね」
「そうだな」
 この駅員との会話も楽しめるようになってきた。
 俺は駅員自身に対して少しの好奇心が湧いた。
「そういえば、あんたは何故ここで働いているんだ。こんな、誰も来ないようなところで。俺はここに来るようになってだいぶ経ったが、あんた以外の職員を見たことがない。ずっと一人で大変じゃないのか」
「そうですね、せっかくの機会ですからお話しましょうか」
 俺も煙草を揉み潰し灰皿の中に落とした。
 駅員は静かにベンチの端に腰掛けた。

 彼は昔を思い出すように染み染みと語り始めるのだった。
「幼い頃から私は電車が大好きでしてね。鉄道会社に勤めることに憧れていました。ですが健康上の問題があり、夢を叶えることが出来ませんでした。すっかり落ち込んでいたところに、この会社の求人を見つけました」
「どんな求人だったんだい」
「求人票には「50」とだけ書かれていたのですよ」
 駅員のその答えに、俺は苦笑が浮かぶのを止められなかった。
 俺の顔を見た駅員も口元で少し笑っていた。
「笑わないでください――私はその求人に心惹かれこの会社に就職しました。この場所で働くたった一人の人員として。確かにこの駅のホームは本物とは違います。ですがそれでも、ここに立ち続けていると感じるのです。私は駅員になれたのだと」

 俺は少し意地悪なことを言った。
「本物の駅は、ここよりももっとずっと働き甲斐があるかもしれないぞ。体を治せば本物に勤められるかもしれない。それでもここにいることで満足しているのか。ここからさらに先に行こうとは思わないのか」
 俺の言葉に駅員はそっと首を横に振り、右手を胸に当てた。
 その制服の胸には見たことのない会社の紋章。
「ここが私の居場所です。人には確かにあらゆる道があるでしょう。ですが全ての望む道を選べるはずもありません。私はここにいることに自分で意味を見出しました。ですから、もっと先、もっと別のものをとは、今さら願わないのです」

 確固たる意志を駅員から感じる。
 俺はそっと立ち上がり再び煙草を吸い始めた。
「なあ、今のあんたは『幸せ』か」
「それは分かりませんが、別に不幸ということではないですね」
「それは何故だ」
「一番の望んでいた夢を叶えることが出来なかった自分、他の人々のような健康体を持てなかった自分、それでもきっと立つべき場所にいるであろう自分。ここにいる間に、私は己を己として受け入れ認めることが出来るようになりました」

 俺の煙草の白い煙を眺めながら駅員は言葉を続ける。
「それは、長い人生においてまずまずのことと言えるでしょう」
 俺は光一の顔が頭に浮かぶのを止められなかった。
 何時からか俺は常に光一と自分を比べて生きてきた。
 同じように光一は自身と俺を比べたりしたことがあるのだろうか。
 もしかしたら、俺が光一と自分自身を比べていることに気付いて、何かを感じていたのだろうか。俺は初めて光一の心を考えた。俺の心の中での比較が、光一にとってもしも負担だったとしたら。
「とんでもない嫌がらせだな……」
 俺はあいつが現在何をしているのかを知らない。
 ただ何処かの邸で、あのお嬢様やお偉い旦那様を相手に暮らしていることを想像するばかりだ。結局、光一は俺とは違う世界に身を置いているのだと。だが、そこにいる光一の心はどうなっているのだろう。

 もしもそこにいることに意味を得られないのならば。
 誰もがうらやむものを手に入れても、それが自分の望んだものと違っていたとしたなら――知りようもない。俺と光一は話をしなかった。
 話をしないことを選択したのは俺たち兄弟だ。
 煙草を深く吸い込み俺は長く長く煙を吐き出した。
「お客様はご自身を振り返られた時、「幸か不幸か」どちらでしょうか」
 駅員のその問いに、俺はしばし沈黙した。
「さあ……、どっちだろうな」
 言葉を濁す。全ては俺が意味を与える。
 俺の中に答えを探さなくては。そう思うとふいに駅員が言った。
「おや、お客様。逃げることをやめたのですか?」
 いきなり何を言うのかと駅員の顔を見る。
 彼は何やら嬉しそうな顔をしていた。それは微かな表情の変化。
 石膏の肌に血が通う。俺は駅員の言葉に静かに自分の靴を見た。
「そうだよ。あんたの言ったとおりだ。自分自身からは逃げることなんか出来ない。それなのに俺は何時も目を背けていたんだ。俺は弱い。それでも、これからも生きていくために意味が欲しい。俺は俺だけの意味を見つけたい」
 言い終わった瞬間、その場の空気が変化した。突如として駅のホームはざわめきが満ち溢れた。俺が視線を上げると駅員がベンチから立ち上がっていた。
 そしてその左手をすっと上げた。




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