フウカのカタナ

 1



「狐狩り」

 世の中にはたくさんの嘘がある。大きなものから小さなものまで、疑い出せばきりがない。全てのものを訝しがるのはとても疲れることだ。だからときには嘘と疑いながら、本当のことだとみなして受け止め、あるいは受流す。それが賢明な生き方だ。
 しかしそれでも、どうしても見逃せないこともある。この世界のほころびで何かがうごめいている。気づいてしまったら最後、目が離せなくなる。たとえ、それにより、この世の道理から外れてしまうことになっても。
 このような話を怖いと思う人もいれば、格好いいと思う人もいるだろう。戯言だと無視する人もいれば、幼子の空想を聞くときのような温かい微笑みを浮かべる人もいる。もちろん中には熱心に耳をそばだてる奇特な人もいる。
 これから話すことに対し、君らが奇特であることを僕は望まない。普通の人を無理に引込むのはよくないことだと思っている。
 それでもせっかく目に留めていただけたのであれば、ある程度は、君らの意識に食い込んでみたいものだ。君らにとっては対岸の火事で、戯れ言にしか聞えなくても、僕にとってはまさしく本当の危機で、大きな事件だったのだから。

 僕の見つけたほころびはブロック塀の隙間にある細い路地だった。
 右側の塀の内側にはコンクリート造りの四角く無骨な建物があり、左側の内側には雨樋の捩れた木造家屋があり、どちらかといえば右側の家の方が新しい。とはいえ塀に着目すればそこに大した違いはなかった。どちらの塀も同程度に古びていた。
 僕の目線の位置が上の縁だ。下に向かうにつれてはがれが目立つ。石で引っ掻けば簡単にコンクリート片がこぼれ落ちる。
 そのふたつの塀に、隙間があり、向こう側の森へ続いていた。神社の鎮守の森だ。僕が今歩いている道はその森を緩やかに巻く。ちょうど半周する頃には商店街への通り道があり、駅へと続いているた
 ちょうど僕は駅へ行こうとしていた。もしもここが通り抜けできる近道であるならば、これを使うに越したことはない。問題は、僕がこの道の存在を、十三年生きてきた今の今までまるで知らなかったということだ。
 僕はどちらかといえば、外で歩き回るよりは室内で過ごす性分だ。しかし外出を全くしないことはない。
 隙間は僕の家の玄関から百メートルと離れていない。それなのに、僕はこれまで、鎮守の森を巻く道、今僕が歩いている道が最短のルートだと思っていた。塀の隙間に気づかないとは、どうにも考えにくい。
 怪しい、とまず思う。意識すると、隙間の向こう側に広がる森も何だか鬱蒼として見えてくる。
 斑模様に色付いた鎮守の森のケヤキの木々が手招くように揺れていた。
 引き返すなら今のうちだ。しかし足はまだ迷っていた。
 実のところ、僕は予定の時間に遅れていた。小走りに進めば電車の発車時刻に間に合うだろうが、立ち止まっていては当然乗り遅れる。辺鄙な街の昼間の電車は、時間にルーズな奴には容赦なく二〇分ほどの待ち時間を強要してくる。
 逆巻く風が背中を押した。
「ま、いっか」
 僕は足を前に進めた。隙間の森が、一歩分近づく。梢が揺れている。洞の暗がりが妙に目についた。
 そのとき、
「やあっ」
 と、掛け声があった。
 すぐ背後から聞えたので、僕は驚き飛び退いた。反対に人影が前に飛出し、手に持った木刀で、塀の隙間を袈裟斬りにした。
 当然空振りに見えた、が、塀の隙間の途中で木刀は動きを止めた。
 数秒、何も動かなかった。木刀を持った人の澄んだ吐息が聞えるばかりだ。
 その人の後ろにまとめられた髪が、呼吸に上下する肩の上に垂れていた。垣間見えた横顔には見覚えがあった。
「姉ちゃん?」
 返事はない、しかし間違いではないはずだ。ついさっきまで家の中で挨拶を交わした姉の顔を間違えるなどありえない。
「何してるの。部活の練習?」
「黙ってて」
 姉は僕を睨んできた。見るからに邪魔っ気そうだ。そんな態度をとられたら僕だって不機嫌になる。でも本当に練習中だとしたら、そういうときの姉のおっかないことは重々承知なので、何も言わずにおくことにした。
 姉の構えた木刀の先で、どういうわけか景色がぼやけた。次いで、キイと何かの軋む音。やがてそれは連なり、キキキと空気を震わせると、最後には叫び声となった。
 木刀が弾け、隙間が揺らいだ。空間だと思っていたものが浮き上がり、丸みを帯び、波打ち、縮む。隙間が吸い取られるように消えていき、古びた塀が、左右のそれらと続く形で見せた。近道はどこにも見えなくなった。
 小さくなった空間の塊は鈍い音を立てて落ちた。色も質感も変わっている。まるでだまし絵のようだ。それには毛があり、茶色く濁った色合いを見せていた。狐だ。いくらここが辺鄙といったって、気軽に見かけるような生き物じゃない。
「まだ息がある」
 姉は呟くと、木刀の柄を腰元に寄せ、狐に対して間合いを取った。剣道の試合で相手と対峙するときと変わりない、静謐で自然な所作だった。
 僕はゆっくりと姉の言葉を咀嚼した。息があるものに刀身を向ける意味とは。考えるより先に姉の腕を捕まえた。
「なに?」
 姉は目を見開き僕を見つめた。物騒な構えだが、姉は正気の顔をしている。どうやらまだ話が通じそうだ。
「姉さん動物虐待はまずいよ、捕まるよ」
「違うし」
 姉は僕に口を尖らせた。
「邪魔しないで。これは私の義務だから」
「何言ってんだよ、やめろって」
 言うと同時に腕を引っ張ると、姉は簡単によろけた。「ちょっと!」と怒鳴るのが聞えたが、構わなかった。姉の真意は不明だ。しかし容疑を掛けられ捕まれば女子高生として碌なことにはならないだろう。わかりきったことだ。
「へへ、ありがとよ」
 その声は僕のものではなかった。姉のものでもない。知らない男の甲高い声だ。
「聞えてるかよ、坊主」
 転がっていた茶色の狐が、口の端をつり上げるのが見えた。
 頭の中が一瞬、白くなる。
「お前?」
「呆けた顔してるなあ。まあいいや。じゃあな」
 狐は塀の上に飛び乗り、屋根まで登ると、空へ向かって一声吼えた。その声の残滓が薄れゆくとともに、狐は屋根伝いに森の方へと駆けていった。
「フウカちゃん、追いかけるも」
 また別の声がした。今度は女声。フウカとは姉、楓華のことだろう。
「さすがにあれは、人の足じゃ無理だよ」
 姉は首を横に振り、誰かに向けて応えていた。
「むむむ、取り逃したも。次会ったら確実にしとめるも」
「うん。頑張ろうね」
「姉ちゃんワイヤレスマイク使ってるの? 相手の音声、スピーカーになってるよ」
「使ってないし」
 答えはともかく、言葉に反応してくれたことが、僕の胸を温かくした。
「知り合いも?」
 また怪しい語尾の言葉が聞える。
 振り向いた姉の、その手元に小さな狸が載っていた。

「ワタシの名はもっける。悪い狐をやっつけてくれる仲間を探しているんだも」
 手乗り狸の声は高すぎて聞き取りにくく、耳を寄せて集中する必要があった。
「狐はいつも人間を騙すことばかり考えているも。奴らを野放しにしておくと人間社会が混乱するも。だから僕ら狸が、才能のある人を選んで狐退治に抜擢するんだも」
「ボランティア? それともバイト? ちゃんと契約したの?」
「細かいところにこだわるのはやめるも。とにかくそんなわけで楓華ちゃんは狐退治の仲間なんだも」
「なんで姉ちゃんがそんなのやらなくちゃなんだよ」
「ワタシが選んだからだも」
「だから、何勝手に選んでるんだって聞いてるんだよ。姉ちゃんだって忙しいだろうし、別の奴にしろよ」
「いいんだよ」
 黙っていた姉が言葉を挟んできた。
「ほらみろ、いいんだも」
「てめえは黙ってろ狸」
「もっけるだも」
「も……もっける、黙ってろ」
「やだも」
「このやろう」
「私も、嘘は嫌いだもの」
 狸に向けてデコピンを構えた僕に構うことなく、姉は言葉をかけてきた。
「悪い狐は人に嘘をつく。そしてこの斬狐刀は、騙すような悪い狐だけを斬ることができる刀。動物虐待じゃない、悪を罰しているだけだよ」
 姉は胸元に刀を寄せ、両の腕でそれを抱えた。剣道の練習の最中、そうやって休憩する姿を僕は度々目にしていた。
「私が斬れば斬るほど、世の中から嘘が無くなる。それって素敵だと思わない?」
 姉の目は大きな弧を描いてみせた。
 姉は今の僕と同じ、中学一年生のときに剣道部に入り、研鑽を積んだ。高校一年生になった今、このあたりでは指折りの強者だ。僕も剣道部だが、今のところ、一度も姉に技を決めたことはない。
 姉は強い人だった。練習にも熱心で、それでいて学業の方もそつなくこなす。でも、その代わり、同年代の誰かと遊んだり、冗談を飛ばし合ったりしている姿は見たことがない。
 姉は練習のときも誰ともつるまずひとりでいる。そんな姉を僕は尊敬するとともに心配もしていた。姉にはもっと、普通の人になってもらいたい。僕は常々そう思っていた。
 人を騙す狐を退治する役目は、普通とは言いがたい。だからこそ僕は渋っていた。
 恍惚とした姉に、何か言わなくてはならない。頭を捻り、ようやく声を出した。
「無理しないで」
「うん、ありがと」
 ひたすらに穏やかな姉の顔を僕はまともに見られなかった。



次へ