煙々羅と少女

 1



 寒さを感じるのはまず指先で。
 それは冬の名残とも言え、春と言えどまだ寒さが残っている。
「特に山の空気は澄んでいるから、余計に寒いかも」

 山の麓に立ち、今日を始めるため冷たく透明な水で口を濯いだ。
 その寒さの中で時折、春の匂いがする。
 山の中には緑のない木々が。枝に新芽が芽生えている木もあるけれど注意深く見なければ分からない。だから私は日常の中で、この自然の中で、なるべく立ち止まって季節の変化を見つけようとしていた。
 人の姿は見えない、そして車や電車もない場所。
 道の多くは舗装されていなく土と小石で渓谷が音が遠くに聞こえる。

「ここの暮らしにも大分慣れてきたかも……」
 私は県の中央からこの田舎へ来た。
 今は高校を休んで、祖母の家で暮らしている。
 ここは山の麓に建てられた日本家屋の一軒家。
 周りを見回しても山と川と森しかない。車の音などは一切聞こえず水の流れる音やようやく春を迎える草木が風に揺れる音。家の近くを流れる川は「渓流」と言ってもいいほど人の手が加わっていない上流だった。

 私は朝早くから道着に着替えて弓を持つ。
 私は白の上衣に紺色の袴と、鈍い鉄の胸当ての姿で弓を持つ。
 ――ここには弓道場があった。
 それは本当に弓の練習をするだけの造りの建物。
 昔にこの山奥に祖父が造った弓道場だ。とは言っても今は雑草が生い茂り的も朽ち果てそうな建物。だけど今の私には十分だった。朝、昼、そして日が暮れるまで私は弓を持ちここに立ち続けている。
 私は遠くの的に狙いを定めた。
 弓を引く時には静かな「音」が聞こえる。
 それは張った時にだけ聞こえる音で、静寂の中でだけ聞こえる緊張の音。

 矢を放つと風を切った後で「たーん」と音がした。今は当たったけれど、的には当たったり当たらなかったりと調子は不安定で。
「以前のようにはいかないけれど、状態は少しは良くなったかな」
 今は前を向こうとして、よく口に出す言葉たち。
 少しずつ上向いてくれればと思うけれど、それと同時に「焦り」も感じている。こうして私が田舎で静かにリハビリをしているうちに、部活の同級生たちに置いて行かれるのかもしれないと言う不安だった。
「きっと……私は今、本当は無意味な練習を重ねているのだろう」
 これで「実力が付く」とは思えないからだ。

 声が聞こえた。それは祖母の優しげな声だ。
『澄ちゃん、お昼ご飯出来とーよ』
 祖母は決して弓道場の中へは入って来ない。
 祖母は「祖父が弓を持った時には決して邪魔をしない」と以前何処かで聞いていた。今の私にも同じ心遣いで接してくれている。私は「すぐに行きます」と伝え、一度片付けをしてから母屋へと向かった。

 ・・・・・・・・・・

 母屋は畳と古い床木で出来ていて、昔にここに来た時から何一つ変わっていない。それが今の私には優しく感じていた。大きな木材のテーブルは何も塗られていないけれど、長年の使用で焦げ茶色だった。
 そこに置かれた玄米と山菜、それと味噌汁と食事は実に質素なもの。
 私と祖母は食事前に少しの会話をする。
「これは初めてみるけれど」
「これはね「わさび」だよ」
 生の状態のわさびは初めて見たから分からなかった。
「炭焼き小屋の裏に生えとるよ、本当に綺麗な清水にしか生えないとーよ」

 その会話の後「いただきます」を言ってから食事を終えるまで一言も喋らないことがこの家の仕来りだった。祖父はそうすることで食事ですら「修練」に変えていたのだろうとここに居ると分かる。
 食事を終える時には「ご馳走様でした」と言う。
 そして私は立ち上がり、再び弓道場へと戻った。
 道着に着替え直して一日中、弓を射るのだけど結果は散々なものだった。心と技術が一致していないような気がして、どうすれば落ち着けるのかを探しながら何度も何度も弓を射るうちに、先に体の方が動かなくなる。
 一度座り込んで、途方に暮れて動けずに居るともう日が暮れていた。

 ・・・・・・・・・・

「いただきます」
 そう言って夕食を食べる時も会話は一切ない。思っていた以上にそれは心に堪える。きっと弓が上手くいっている時は充実感や達成感で、何も喋らずとも大丈夫なのだろうけれど、この精神状態では何か話すことを通じて心を軽くしたい。
「……ご馳走様でした」
 祖母は片付けを始め、私は部屋へと戻った。

「……誰かと話したいこの気持ちはいけないことなのかな」
 冬の夜空には綺麗に星が映る。
 私は厚着をして縁側へ出てそれを見上げている。
「同じ夜空のはずなのに、県の中央に居た時とこんなにも見え方が違うんだね」
 考えることは何時も同じことだった。上手く行かない学校生活と部活動の内容、自分の弱さばかりを嘆く言葉。
 夜空を含めてここにある自然は繊細だった。
 あの「わさび」はこの山の綺麗な場所でしか生きれない。
 そうこんな田舎でしか生きれない程弱いのだろう。
「考え過ぎだよって他人は言うけれど」
 それにどうしようもなく振り回されるのが私「白城 澄」だった。
 嘘を吐くのがあまりにも下手で、正直者と言えば聞こえはいいけれど、生きることに不器用で心が弱く、そのうちに他人を遠ざけて「声をかけづらい」と言われる始末だ。だから弓に没頭していた、他を捨ててまで。
 それなのにその弓すらまともに出来ない状態に陥ってここまで逃れて来た。
 一人で生きていきたいのに何一つ成り立っていない自分が嫌いで。

 自然の中にいると正常に戻れる気がしていた。
 学校に居た時に如何に自分が弱っていたかを改めて思い知る「強いフリ」をしたことは「信仰」のようだとも思える。そうしなければあの場所で心が押しつぶされてしまうような気がしていたから。
「何であんなに追い詰められていたのだろう」

 前を向こうとしているのに気が付くと何時も視線は足元を向いていた。今の私に何かを見上げるのは無理なのかもしれないと感じていた。



次へ