• 10
  • 後編 1
  • スロウレイン 前編

     1

    『お願いだから……目を覚ましてよ……嘘だと言って……』
     遠くで誰かの声が聞こえるのです。ですが真っ暗でした。目を閉じていたからです。そしてもう二度と開かないと分かって。それでこの際、色々と思い出そうとしています、始まりから終わりまでを。記憶を辿れば始まりはあの森の中。

     ・・・・・・・・・・

     葉の山の中に、樹齢百年を越える「神木」が存在していました。
     葉山の土地、その清らかな水と、栄養豊富の土壌で夏にはその枝に緑を茂らせていたのです。小動物はその木陰で休み、日中は妖したちの溜まり場になって。その木には魂が宿り、この山の誰からも「信仰」があったのです。
     私はその神木の精でした「木霊」であり、自分では「花音」と名乗っていました。
     元を辿れば私は誰からも敬われていたのです。

     ですが目を開けると、其処は神社の中でして。
    「それもこの前までの話で、今はこんな辺鄙な神社の中……」
     ですが山の中で敬われていた私は、今は人里の神社の中に。街の神社の守り樹としてその大樹から「挿し木」された枝が私でした。意識の一部を枝に宿して。分かれたことで個としての意識を持ったのはいいのですが。
     此処は小さな神社で、誰も小さな挿し木の私を敬うことはなくて。
    「何故私が、このような小さな神社に来なければならなかったのでしょう」
     それは自尊心でした。置かれた待遇に不満だったのです。
    「いっそもう見切って、目を閉じて帰りましょうか。あの青い森の中へと」
     まだ心があの山に向いていたのです。目を閉じて心を静めれば意識はあの大部分の流れへ、神木に帰ろうとするのです。まだ個としての意識がはっきりせずに、何かあればすぐに意識が山の中の神木へ帰ってしまう。

     離れた心は幻想的な青い森の中を漂うのです。
     このまま記憶の中を彷徨い神木まで戻れば、私は神木に吸収されるでしょう。
    「それでいいのかも知れません。人の世はつまらなく、殊更神社の中は面白くもなく、何より誰も私を信仰などしていないのです。意味がないです」
     ですが、その離れかけた心を挿し木に戻す女の子の声が。

    『お早うございます、挿し木さん』
     その挨拶で目を開けてしまえば、青い森に戻りきれずに神社の中に。私のことが見えているのでしょうか? いえ、きっと違うでしょう。仮に見える人でもまだ不安定な私を見ることは出来ない。丁寧に手入れをしてくれるその人の姿。
    「枯れないように大きな守り樹となってくださいね」
     この場所で面白くない何もかもに毒づいていても、この人だけは良い印象を覚えるのです。この自惚れた木霊の私が好む清らかさ。この神社の巫女「榊 結衣」さんはそれに当てはまる気がするのでした。真面目で清楚な印象の人でした。
     白の着物に朱色の袴から覗く手足は透き通っていました。切り揃えられた黒髪。

     頼りなく力弱い挿し木が枯れないようにと慣れていない土いじり、とても気を遣ってくれるのでした。その優しさと美しさに心が動かされたことは自然でした。妖しの類は見慣れていましたが、このように人と接することは初めてだったのです。
    「まあ、このように世話してくれるなら悪くないのかもしれません」
     そのように言葉と、くだらない感情を濁しながら此処に留まることにしたのです。

     ・・・・・・・・・・

     挿し木にも適齢時期はあります。ただの小枝を木にする途方もない作業です。
     私は春に移されました。本来は適齢時期ではなかったのですが。
     未だに枯れていないのは彼女のお陰なのでしょう。
     覚えた感情は「感謝」それがきっと始めの感情でした。
     徐々に「大部分の一部」だった私の魂は明確な自我を持ち、気が付けば以前の記憶が曖昧になっていたのでした。意識はふらふらあの神木へ帰ることも無く、この土地に留まったのです。この神社の精となっていたのです。
     ――土には僅かな根が張り、自立しようと。
    「そもそも、以前居た森はどのようなところでしたかね……」
     何となく青かったことは思い出せるのですが。もう曖昧に淡くなってしまって。

     ・・・・・・・・・・

     もともと居たはずの青い世界を忘れて、この今の現実に生きている実感を感じ始めていたのです。そして確かに分かることは一つだけ。
     今の私は彼女の丁寧な世話で生きていること。
    「此処も「住めば都」と言うところですね。もっとも都は知りませんが」
     少なくとも何かを不自由に思うことは無くなっていたのです。以前は此処は辺鄙な場所だと感じていました。ですが愛着が湧き勝手を知れば、そう思わなくなっていまして、勝手を知ればこの狭さは逆に居心地が良いのです。
     別に大勢に敬われていなくても、それなりに幸せを感じると気付いたのです。
     静かに流れゆく時を感じて、この場所で日々暮らしていくのは悪くないはず。
     そう感じ始めていたのです。ですが「個」と「欲」は切り離せないものでした。私は自立するに従って幾つかの欲を抱くことになるのです。小さきも大きいも含めて、そうそれはまるで一人の人間のように。

     ――誰かと触れ合いたいと。
     願い始めたのはこの時、何を思ったのか、誰かと話してみたい。
     そのようにして、神木の一部は個性を持っていくのです。
     それがこの私「木霊 花音」でした。挿し木の精霊となって意思を持つ。
    「元の記憶が断片的にしか思い出せないのですが。別に必要無いので構いませんが」

     今、必要なことは優しげな彼女と、どのようにすれば意思疎通を出来るか。その方法を何時も探しているのですが、良い答えは浮かんでこないのです。そうこうしているうちに彼女が神社の中、私のもとを訪れる時間になって。
    「お早うございます、守り樹さん」
    「お早うございます、結衣さん。今日もいい天気ですね」

     その言葉は伝わらない。その事実が何故か私を誠実に、健気にさせるのです。
     まるで人知れない森の奥で咲いた、一輪の青い花のように。
     何時か何処かで何かが通じて、私の想いが伝わるなんて。そんな夢物語をずっと待ち焦がれている。それが叶うのならば他は何も要らないと、その時は本気で思っていたりもしたのでした。




    次へ