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    『困るんですよ』
     そう言った人物は着物姿で手にはくたびれた原稿用紙を持っている。男は小さな出版社の編集者でその前に「彼」が立っていた。彼が不服そうな理由はただ一つ、原稿を書いた人物は彼だということ。そして自尊心があった。
     彼には良いものを書いたと言う自負があった。
    「ですが二葉亭四迷先生や夏目漱石先生は――」
    『――先生はそのお二人とは違います、先生は無名の作家です』

     その言葉が彼の今の立ち位置を物語っていた。
     彼の作品には確かに何かがあった。
     文才と想像力に溢れていたからこそ一人の編集者の目に止まった。しかし一つ言うならば「似たような世界観」の作家は周りには居なく、だからこそ世間の価値観に合わせて売り出そうとするこの編集者と「衝突」が起きる。
     編集者にも彼に対して悪意は一切ない。
     彼の作品の魅力については分かっているし尊敬さえも感じている。それでも「編集者と言う立場上」売れる作品を扱わないといけずに、前例のない彼の作風を売り出すためにもっと大衆娯楽によせようとしていた。
     そうしているうちに二人には溝が出来ていたようだ。
     彼は自分の作品に対して敏感で暗に否定されれば攻撃的になった。
    「それ程までに流行が大事と言うのなら、いっそ筆名を肖って変えてみましょうか。この小さな出版社に相応しくない程に、豪華に」
     売り言葉に買い言葉とはこのことだろう。
    『そうですね、少しでも読者を誘導してみてくださいよ』
     そう言って二人はこの日は喧嘩別れした。彼は乱暴に原稿を懐に仕舞った。

     ・・・・・・・・・・

     結局、この日も彼の原稿が通ることはなかった。編集者は彼の作品を見てくれるが中々上層部へ持って行かなかった。確実に「売れる作品」でなければ小さな出版社自体が危ういからだ。作家は明治の世には溢れている。
     彼は帰り道を歩く。足元の自分の古い下駄を見ていた。
     深い緑色の着物の奥に先程の原稿を雑に仕舞ってある。
    「何一つ分かってくれていないようだ。この東京なら俺の作品を評価出来る人がいると思ったけれど、どうやらそれは思い違いのようだった」
     彼は明治の東京の街並みの中を歩く。この街は雑多としている。
     明治末期の東京には作家を目指す者が数多くいた。そして金が無い者たちは元々は遊郭だった建物の小部屋に住み、成れるか不透明だが作家になるため下積みを重ねる。それはまるで芸術家で溢れる仏蘭西のパリ「モンマントル」のようだった。
    「だがこの東京は噂で聞くパリとは大違いで作家に全く理解がない」
     彼もパリを見たわけでもないのに、そう愚痴を言っていた。

     彼も他の多くと同じように、この東京で小説に全てを賭けて生きる作家の端くれの一人だった。彼はまだ自分の可能性を出し切っていないと信じ続けて、元は遊郭だった建物の二階に住み込んで暮らしていた。
     彼は上京してからずっと「孤独と焦り」を日々感じていた。
     そしてその夜は帰らずに、街中を歩いていた。
     彼は視線が上がらずに地面ばかりを見ている。
     するとその街の闇の中に仮面を付けた少女が座っていることに気付く。
     ――こんな不可思議な存在さえ溢れている。
     黒の着物には紫の蝶が描かれている。髪は濡れた烏のような黒髪で、白い面はどうやら白猫のようで紐で顔に固定されているため素顔は隠れている。背丈は十歳くらいに見えて体型は特に印象に残らない「普通」と言っていいだろう。
     ――一体、この仮面の少女は何者だろうか。

     彼は上京してからこの東京で多くの「知らなかった存在」に出会った。それは良いことも悪いことも連れてくるけれど、小説に置いては必ず「糧」になる。仮にも物書きを名乗るのなら作品の糧になることを無視することは出来なかった。
     人の形をしていると言うことが彼の関心を誘った。上手くいけば作品の「核」となる登場人物に成り代わるかもしれないと。だから彼は少しの恐怖心を抱えながらも、その仮面の少女に声をかけてみた。
    「おい小娘、お前は何者で仮面を付けてここで一体何をしている」

     少女は仮面のまま彼を見上げた。二人の間には少しの沈黙があった。
     そして仮面を外さずに彼の質問に質問で返した。
    『そう言うあなたこそ何者なの』
     そう問われて彼は少し考えてからこう答えた。
    『俺は「二葉亭 漱石」と言う大御所の作家だ』
     有象無象、本物だろうが偽物だろうが関係のないことだろうと。彼は「その他大勢の一部」に過ぎない。筆名など派手でいいと思った。ここまで皮肉的になった理由は未だに先の編集者との喧嘩を引きずっていたからだ。
    「二葉亭 四迷」と「夏目 漱石」
     明治の世で言わずと知れた大御所の作家である。
     敢えてその二人の名前を組み合わせて作った新しい筆名は、先のやり取りで生まれたもので不適切だ。だけどこれならば誰かが勘違いして目を向けるかもしれない。実際にこうした模造の筆名は明治の東京の中に溢れかえっていた。

     彼は大御所どころか、十代後半、どう見ても二十代にしか見えない。
     それでも彼女は偽りだと知らないようで仮面に手で触れながら言う。
    「作家。私はあまり世間を知らないけれどあなたは有名な人なのでしょうか」
    「そうだ、歩いている人に「二葉亭先生」もしくは「漱石先生」で聞いてみろ。誰もが知っている明治の世の中では「有名過ぎる作家」だ」

    「……そうなのですね、私は初めて有名人と言う存在と話しました」
     仮面越しでも少女が興味を持ったことが分かり彼は面白くなった。いい気になって嘘を並べてみた。まるで本当に自分が偉い存在かと言うような素振りを見せながら。挙句には先程の原稿を懐から取り出して言う。
    「今の東京には俺の原稿に文句を付けられる者などは居ない。読む人を感動させ心に響かせて、小説の奥にある「主題」を感じて感嘆の声を上げる物だ」
     そう言ってくたびれた原稿をちらつかせた。
    「そうですか、それではその原稿を少し私にも読ませていただけませんか」
    「悪いがこの原稿にも結構な値段が付く。もう出版社の物だから貸せない」
    「そうでしたか、残念です」
     その言葉も嘘だ。彼は次の言葉で会話を締めるつもりだった。
    「近いうちに本屋で雑誌に載る。その日を楽しみにして過ごせばいい。楽しみにして本屋へ通えばいい、じゃあな仮面の少女」




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