みそらびより

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 ――私の存在の前提に人々の不幸があると、誰かが言った。
「悪とはこの世から消えないもの」
 この深い緑色の着物には汚れはついていない。
 腰には帯刀、小太刀、それはこの世の見えない線を切るための神刀。
「悪縁を断ち切る縁切りの神」は人々の不幸の上に成り立つ。
「それも酷い話だけれど生まれは仕方ないこと」
 人生をやり直すため、もしくは今のどうにもならない状況から抜け出すために、私のような縁切りの神が存在する。だから私の成すべきことは常に「中立」でいなければ務まらない。心に天秤を置いて立っている。
 私は世界と距離を置いて一人で居ることが多くなった。
 縁切りの神とはこういう存在だと。

「嫌になるようなことばかり起きるから」
 私の出番など無ければそれが良いこと。
 それでも過去から続く「負」を断つことを願いに来る人は絶えることはない、祈ることでしか心を救えないような状況が世の中には確かにあり、それを「神頼みは他力本願だ」と言うことは酷だと私は思っている。
 それは己の因果のみではないことがあるから。
 私はそう言った過去から続く、本人にはどうしようもない繋がりを切る。

 秋は終わり、冬の乾いた風は冷たく。
 既に冬眠に入っている動物たちもいて、春を待つ季節だった。
「まだ雪が降っていないだけの、そうそれ以外は真冬と呼んでいいほどの寒さ」
 また今年も始まる、年こそ明けたけれど気分は停滞していた。
 人里からそう遠くない小さな山の奥の無人の神社、時折自分で埃を払うけれど、手入れもされないような忘れ去られたような社。足元で木の葉散る音、生き物の気配が消えた枯れ木の山の中。

 ・・・・・・・・・・・

 今日もそんな停滞する気分の私のもとへ一人の女性が。
「どうかお願いです、神様」
 腰鞘に手を当てている、抜くべきか否かを決めかねていた。
 その女性は二十くらいで恋人と結ばれることを願っていた。
「どうか神様、親が作った悪縁を断ってください。私はただ好きな人と一生を添いたげたいだけなのです、お願いします」
 かちゃりと一度は柄に手をかけたものの。
 一度大きく息を吐いた、そして刀は鞘に収めたままだった。

「――この縁は切らないでおこうか」
 女性のことは既に調べていた、ここに来るのは一度二度ではない。
 祈りと「縋り」は似ていて彼女は助けを求めているけれど。
 この女性が好いている男性こそが「悪縁そのもの」であり、家系の問題は確かにあるけれど女性はその縁に守られている。今ここでこの縁を切ってしまえば、それこそどうにもならずに悲惨な末路が待つだろう。
 それは本人には見えない線が私には見えたから。
「これは本人には見えない線だろうけれど仕方ない」
 斬るかどうかは私の意思次第だった。

 理りがある、そうこの世の上にあるものはそれを越えられない。
 この世の糸は何処でどう絡まり合っているか分からないもので、それは誰かが意図したものではない時も、解けない場合もある。それを無理に切ろうとすれば、弓を張られた弦のように深く心に食い込み、血が流れる。
 だから刀は抜けない。
「お願いしますと言われても」
 例え役立たずと言われようが簡単に切ってはいけないものだ。

 後日、その女性は再び神社へ来て破局したことや「何故苦しんでいる自分を助けてくれなかったのか」などの恨みつらみを一方的に言っては二度とここへは来なかった。思い出せることが最近はそういう記憶しかない。
 誰かに「ありがとうございます」と言われたことは思い出せずに。
「誰かに感謝されるなんてことは」
 結局は一時の私の優越感のために過ぎないのだろうから。

 暮れる空、何かが見えなくなっていた。
 何時の間にか「そういう感情」に慣れすぎてしまって。
 こんなことばかりだけど月日の流れのせいで深く傷つきはしない。
 それでも時折酷く疲れを覚えてしまう。
「……ちょっと真面目すぎるのでしょうね」
 今は何と言う時代なのだろうか。
 この前までは血で血を洗うような戦が多かったと聞くけれど。

 ・・・・・・・・・・

 全ての神の系統は出雲大社より派生したものだと聞いていて。
 それが真実かどうかは分からないけれど。
 今でも年に一度、出雲参りの連絡が届く。
 今年の始まり人の形をした式神が私のもとへ届いた。
『白赤様、去年も参加せずでしたが、今年会えることを楽しみに皆待っています』
「……そうですか。申し訳ありませんでした』
『今年の出雲大社で会いましょう。ではでは』
 それだけ言うと役割を終えてただの紙になった。
 先日の出雲大社参りにも参加せずに「厭世の神」と周りから呼ばれていることも、私にはどうでも良くなってしまったこと。昔は、もう少しは他の神との付き合いを大切していたような気もするけれど。
 だけど縁切りの神は嫌われ者だから。
「私は輪の中心にはなれないと知ってから遠ざけた」

 何時だってここは、あの時のまま。私の時間はまるで止まってしまったかのように静かに誰かを待っている。それが誰なのかは未だに分からないけれど。
「その相手を待ちぼうけているんだ」
 揺れ動く心の天秤を平行に保とうとはしている。
 ただ心の天秤に何を乗せるべきか分からずに悩んでいた。
 岩から湧きでた水を手ですくって飲むと凍るほどの冷たさが。それが今は癒やしに感じるのだから不思議で。



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