付夜紅葉雑貨店 弐

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 鎌倉の夕暮れ時に冷たい風が吹き抜けた。
 何処かうつむいて歩く俺の感覚に引っ掛かるものがあったらしい。
 ふっと目を上げると、木製の看板がぶら下がっている。
 そこには『付夜紅葉雑貨店』と書かれている。その雑貨店の黒い壁には紅葉が描かれていた。
「――紅葉か」
 今日、俺の元から去っていった女性も紅葉という名前だった。
 何時もそうだ。俺は誰一人の心として自分の手元に留めておくことが出来ない。不器用にもほどがあるとか、愛情が足りないとか、そんなことではない気がする。もっと深い別の場所に、何か本当の原因がある。
『あなたはいつも逃げてばかりね』
 失った彼女の声が頭の中に蘇り思わず身震いした。
 寒いせいだと自分に言い聞かせる。
 不意にくしゃみが出た。鼻に手をやると鼻の頭がひんやりしていた。
 心が寒いんだ、何処かから隙間風が入り込んでくるみたいに。
 気が付くと吸い寄せられるようにして雑貨店の扉に手を掛けていた。

 うつむいたまま店の中に入ると、軽やかな女の子の声。
『いらっしゃいませ』
 扉を閉めてから顔を上げて声が聞こえた正面を見ると、青いエプロンを着けた女子高生くらいの女の子と目が合った。何故か彼女は驚いていた。
「二宮さん、どうしてここに。というか、そんなラフな格好なんて初めて見ました、ジーパン姿なんて今まで見たことない……」
 女の子の言葉の意味が分からなくて俺は首を傾げた。
「……確かに俺は二宮ですが、あなたの言う二宮とは別人だと思います」
 その言葉に女の子は徐々に顔を真っ赤に染めていった。
「す、すみません、お客様が私の知り合いに瓜二つだったもので、つい。大変失礼致しました!」
 瓜二つ。それを聞いて俺は嫌な予感に襲われた。
 俺の頭の中に浮かぶ顔。それは俺の双子の兄。
「光一のことか……」
 口の中に苦さを感じる。俺の名前にも『一』がつく。優一。虫唾が走る。
 掠れたような呟きは女の子の耳にも届いたらしい。
「今日はついてないな、あいつと関わりのある女の子と鉢合わせとは」

 店の中に視線を巡らせる。実に様々なものが置かれている。
 店内に置かれているものは全て「古物」だろう。
 色褪せた品々がひっそりと鎮座し、こっそりとこちらを窺っているような気配がする。その中で一際異彩を放っていたのは大きな水槽だった。中にはゆったりと泳ぐ魚。まるでそこだけ、別の時間でもって動いているような。
 俺の意識はその魚に吸い寄せられた。
 体から魂が引き剥がされるような浮遊感が。
『どうぞ、ゆっくりとご覧になってください』
 店の奥から、俺と同じ年頃に見える男性店員が声を掛けてきた。黒地に紅葉柄の着物を身に着けている。彼の醸し出す雰囲気から察するにこの店の店主なのだろう。彼の声は聞く者の耳にすっと馴染む。まるで柔らかな水のような声だ。
 俺は女の子から離れ店内に陳列されている品々を見て歩く。
 背後から視線を感じる。俺のことを「誰かさん」と見間違えた女の子は俺の言葉の真偽を確かめようとしているようだった。静かに動く気配、そして俺に並び立つ、仄かな体温。彼女は囁くような声で問うてくる。
「あの、先ほど光一って、もしかしてあなたは二宮さんの――」
 皆まで言わせず俺は口を開く。
「その通り、俺はあいつの双子の弟ですよ」
 吐き捨てるような口調になってしまった。そこから何かを感じ取ったのだろう、女の子は口を噤んだ。と、男性店員の声が静かに飛んでくる。
「風夏さん、今は『働いている時間』です」
「は……、はい。すみませんでした」
 謝罪するも、女の子は俺にちらちらと視線を寄越してくる。
 この子は光一とどういう関係なのだろう。

 俺は社会人になって実家を出てから、一度も光一とは会っていない。現在、あいつが何をしているのかも知らないし、知りたくもない。俺たちは双子だが同じ存在ではない。それなのに何処へ行ってもあいつの話題になってしまう。
 光一は、俺とは違って何をやっても完璧だ。
 それとは対照的に、俺は何時も「負け犬」だった。
 俺は落ち着こうとゆっくりと陳列棚を眺めた。
 ふと、一冊の本が目に留まった。
 静かにその本を手に取ると僅かに黴臭い。
 表紙をみると数字だけ書かれている。
「50、がタイトルか……半分ね……」

 湧き上がる負の想いとは裏腹に俺の手はその古びた本から離れなかった。
 何故だか離すことが出来ずにいた。
 少し心を落ち着けようと、大きく一つ息を吐く。
 本の中身は見なかった。値段を確認すると五十円だった。ふざけているようにしか感じられない。俺は、少し戸惑い気味な表情の女の子にその本を差し出した。
「これ、買います」
 すると女の子の表情が引き締まったものへと変化した。
「はい、かしこまりました」
 俺はレジへと向かう。男性店員がレジを打ち、女の子が本を包む。
 その待ち時間の沈黙を嫌い、俺は疑問を口にする。
「この本、タイトルが『50』だから五十円なんですか」
 すると、彼の口角がやや上がった。俺はその表情を見た瞬間、学生時代の歴史の教科書に載っていた古代ギリシャの彫刻を思い浮かべた。硬質の美。真っ白な石のくせに、今にも色付きそうなほど妖艶。その艶かしい唇がそっと動く。
「そうだと言えば、そうです」
「それ以外の理由があるんですか」
「そうですね、この商品には五十円という値段以外似つかわしくないのです」
「はあ、なるほど……」
 正直よく分からなかったが会話を打ち切り、俺は商品を受け取った。
 店を出るまで、俺は女の子の視線を背中に感じていた。



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