シトラスの妖怪

 1



 彼女はあまり良くない夢から目覚めると内容はすぐに忘れてしまう。
 彼女が起きるとそこは森の中のようだった。
「何か長い夢を見ていたような気がするけれど」
 何度か記憶を辿ろうとしても彼女にはどうしても夢の内容は思い出せなかった。

「ここは一体何処だったかな」
 ――ああ、ここはよく知っている森の中だ。
 記憶が曖昧なのは睡魔がまだ夢の中へ誘うからだと思った。それでも午後の光を見て彼女はそろそろ起きなくてはと思い、立ち上がって森の中を歩くことにした。
 そこは彼女にとって見慣れた風景、この場所で彼女は育った。
 慣れ親しんだ森の中の勝手は分かっているから怖いことはない。
 白い雪の中で歩くと足跡が後ろに残っていく。
 雪景色と言うことは今はきっと冬なのだろう。
「随分と寒いんだね、今年は」
 手を伸ばしたらこの高い空を掴めるかもしれないと思っていた。
 この森の中で彼女は暮らしていた。冬の森の中に差し込む少し鈍い光、今日も明日も同じ日が続くことを当たり前のように思っていた。
 実際に変わったことは特に無いような気がしている。

 そして彼女もそれで良いと思っていた。
 妖しの中で噂に聞く「人の世界」は怖いものだと思っていたからだ。

 ・・・・・・・・・・

 だけどその日、彼女は遠くからの音を聞いた。
 その音はところどころ間違ったかのように音がずれている。
 それは「ピアノの音」で彼女は初めて聞いた魅力的な音に誘われて歩き出す。
「何だろうこの調べは……ちょっとだけ隠れて行ってみようかな」
 彼女が向かった先は普段は行かない人里の方向だった。
 常日頃、森に住む者たちは口を揃えて「人里へ近づいてはいけない」と言う。彼女はそれを今まで守っていたけれど音への好奇心の方が大きく森の外れへと。常緑の木々がその枝を揺らして彼女に注意を促した。
 ――行ってはいけないよ、妖しのお嬢さん。
 森が彼女を引きとめようとした。
 それでも彼女は呼び止める声を聞かずに森の外へ誘われた。
「少し見てくるだけだから、この音の在処を」

 森を抜けるとその先に民家があった。
「あの家の中から聴こえてくるみたい」
 ピアノの音に誘われるまま彼女は庭先へ忍び込んだ。硝子の向こうで古いピアノを弾いていたのは同じくらいの女の子だった。彼女はすぐに「あの女の子のように一度奏でてみたい」と言う衝動に駆られた。
 それは他のものに替えられない感情だった。
 そのうち硝子の向こうの女の子も彼女に気付いた様子だった。

「この辺りの子なの、どうして庭へ」
「その音を聴いているうちに、それを一度私も奏でてみたくなって」
「そうなの、まあ別に減るものじゃないから、好きに弾いていいよ」
 思いの外、簡単に許可がもらえて彼女は嬉しくなった。
 固い椅子に座り鍵盤を叩くと音が響いた。その時の胸の高鳴り、彼女は今まで生きてきてこれほどの感動を知らなかった。
 しばらく思いつくままに指先で鍵盤を叩いていた。
 その途中で彼女と女の子はお互いについて少しの話もした。
 約十五分ほど叩いていたけれど、もう日が暮れてしまった。
「もういい時間だけど帰らなくていいの」
「ううん、帰らないといけない。でも本当は私はピアノをずっと弾いていたい」
 何よりも音楽に魅せられて。
 その言葉に女の子は答える。
「その逆で私はいっそ森の中で暮らしたいかもね」
 女の子は何かを思いついたようだ。
 女の子が悪戯っぽく笑って彼女に持ちかける危険な誘い。
「――交換しようか、お互いを」
「でもそんなことは」
「それで好きなだけピアノが弾けるはず。森の中にはピアノなんて無いでしょう、お互いに有名人と言うわけでもないし、私の両親は私のことを疎ましく思っている、だから入れ替わっても誰も困りはしないよ」
 女の子の甘い誘いを彼女は断ることが出来なかった。
 二人は服を着替えて、お互いの名前から何までを全て取り替えてしまった。

 そして彼女は帽子を深く被り女の子の両親と出会う。
『帰る支度は終わっているのか』
 彼女はこの場を頷いてやり過ごした。
 どうやら女の子はこの家に「遊びに来ていた」ようだった。
『もう家に帰るから、忘れ物だけはしないでね』

 ・・・・・・・・・・

 彼女は車に乗って遠くの街へ。
 車窓から見上げた夜空には白い月が浮かんでいた。
 初めて見る都会の中の、森で見たことのない強いコントラストを初めは不気味に感じていたけれど同時に彼女は惹かれていた。見たことがない「自然ではないもの」の持つ魅力に心を奪われていた。
 家に帰り食事をするけれど誰も顔を合わせない奇妙な風景だった。
 両親は我が子が入れ替わっていることに気付いていない、もしくは知っていても知らない振りをしていた。それはこの家庭が「偽りの家庭」だと彼女に理解させることには十分だった。入れ替わった女の子が言ったことは正しいと知る。
 ――両親は私のことを疎ましく思っている。
「……ご馳走様です。では部屋に戻ります」
 あの言葉を信用するのなら隠れて居た方が無難だと思った。
 だから何時も彼女は一人だった。

 休み明けには学校へ行って、知らない学友とも話した。
 だけど周りの誰もが気付かない、もしくは気付かない振りをした。
 他人にしてみたら二人が入れ替わったことなどはどうでもいいことのようだ。問題なく過ごせるのなら「青木 沙夜」は、当人でも別人でも構わないと。
 ――そうか、ここはそういう世界なのか。
 彼女はそう受け取ることにした。

 そうして二人が全てを入れ替えた生活の中で。
 時折、森の中を懐かしみ「帰りたい」と思うことは確かにあった。
 ここでは何もかも冷たく、勝手が分かっていた森の中のように行かずに苦しむことも確かだ。不意に夢の中の森へ迷い込むことは仕方ないのかもしれない。まるで氷の世界だけどここに居るしかないとも思った。
「一人で生きて行けるはずがない。帰る場所にはあの子が私の代わりに居るもの」
 少なくとも外よりは家の中は暖かい。
 そしてここには「ピアノ」があった。
 自由に弾くことが出来る、だから家を飛び出さないのかもしれないと。



次へ